こんな不気味な展示の、意味も分からないQRコードを読み込んで、
ウィルスやフィッシングサイトだったらどうするんですか?
と、思いながらもこんな所までご覧いただきました
あなたの勇気と好奇心、そして、時間と心のゆとり。
その全てに感謝と敬意を送りたいと思います。
本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。
もしかしたら、美術とか芸術。そういう類のものは、
こういう気持ちの集合体、あえて言葉にするなら
「善意」によって成り立っているのかもしれないと思ってしまいます。
申し遅れましたが、自分は、この展示の作者で、
太田勝之(おおたかつゆき)と申します。
趣味でこんなことをやっている、しがないサラリーマンでございます。
こんな展示のこんな所までご覧いただきましたお礼の代わりに・・・
なるか、ならないかで言えば、はっきりいってなりませんが、
「何故こんな展示を何で行ったのか?」
制作意図とかそういったことを書かせていただこうかと思います。
しかしながら、ここまで読んで、もう幾人かの方はお気づきかと思うのですが、
自分の文章はとても回りくどくて面倒な文体ですので、
これから書く文章もおそらく回りくどく長文になるにではないか。
と予想されます。ですので、これ以上は読まなくてもいいかな?
とか、今月のパケット通信量を少しでも減らしたいな?とか、
めんどくさいからグラぶっちゃおうか?とかお思いの方は
ここでお読みになるのを止められることをお勧めいたします。
もっと言えば、ここまで読んでいただけたことが奇跡なのです。
それだけでも十分でございます。
本当にありがとうございました。
そして、読むことを止めなかったあなた方には、
半分は驚き、もう半分は感謝を感じております。
世の中、そういった方を「もの好き」と言うのでしょうが、
「もの好き」がいるからこそ、世界は発展と発見があるのではないか。
そんなことを思う昨今でございます。
さて、正直な話をいたしますと、自分は作品の制作意図や、
コンセプトを語ることが好きではないのです。
美術とか芸術、何かしら表現されたものは、作者の手を離れ、
世に発信された時点で、受信側がどう受け取るかは、
それは受信側の自由であり勝手だと思うのです。
そこに、作者はむやみやたらに介入してはいけないとも思うのです。
例えば、絵描きが明るい色の絵を描き上げた。その絵を見た受け手が
「この明るさが逆に暗い感じを引き立ててる!!とても感動した!!」
と涙を流して言っていた。しかし、絵描きにはそんな意図は全くなかった。
なので絵描きが「そんな意図は全くない。」と言い切ったら、
なんか「間違ってた感」が出てしまって、
涙まで流して感動した受け手が思いっきり恥ずかしくなります。
この場合、絵を見て感動した人は間違いなのでしょうか?
自分はそんなことはないと思うんです。
「作品は子供みたいだ」なんて言う人もいますが、
自分の子供のことは、親が一番知っているかもしれませんが、
親も知らない一面を、親友が知っている事もよくある話しです。
なので、作者が制作意図やコンセプトを説明してしまうと、
そこに引っ張られる、あるいは、それが絶対の正解になってしまい、
本来、自由であるべき鑑賞に制限が掛かってしまうような気がしています。
作品なんてその人の感じ方で自由に感じればいいんだと思うんです。
とは言え、
ただ並べられた『あの時の「〇〇〇」』と印刷された捨て看板を
「はい!解釈しろ!」・・・って酷い話でもありまよね。
乱暴者のジャイアンだって、もう少し丁寧にのび太をぶん投げますよ。
おそらく、ここを読んでいない方は、この展示が大暴投過ぎて、
きっと自分に投げられているとは絶対に気づかずに
素通りされていることでしょうね。
全く、こんな展示は不親切にもほどがあると思います!!
作った奴の気が知れないですよね!!
そういえば、そもそもの話し「捨て看板」というものをご存知でしょうか?
展示しているあの看板。道路で時々見かけませんか?
不動産の広告や案内であったり、お祭りや催事の案内板として使われています。
しかし、自分の記憶では30年ほど前までは、街のあちらこちらで、
どぎつい蛍光ピンクを主体にしたいかがわしい系の捨て看板が、
我が物顔で電信柱に括り付けられまくっておりました。
もちろんそれは許可なんて取っておらず違法行為の産物。
多感な思春期真っ只中の自分は色んな意味でドキドキしながら見ていたし、
そしてこうも思っていました。
「勝手に掲示することは違法だから、こそこそ掲示するのに、
看板だから目立ってなんぼの感じってなんか変だな」と。
その後、捨て看板(特に、ピンクのいかがわしい系)は、
撤去されてはまた掲示されてのいたちごっこを見ながら、
少しずつですが無くなっていき、今では街中で捨て看板を探しても、
なかなか見つからない状況となりました。
見つかってはいけないのに、
目立たないと役目を果たさない。
そんな自己矛盾を抱えた「捨て看板」の存在とは一体、何だったのか。
体の良い言い方をすれば「時代」だったのかもしれません。
「売れているものがいいものだっていうなら、
一番うまいラーメンはカップラーメンだ」
とミュージシャンの甲本ヒロトが何かのインタビューで言っていましたけど、
「その通り!!」と答えてしまう人が、けしからん程度にいた時代でした。
なんでも、手軽、使い捨てがもてはやされ、
今以上にリサイクルとかリユースという考え方が希薄だった、
まさに、大量生産・大量消費時代の申し子のような存在。
それが、捨て看板であり、またその被害者だったのかもしれない。
そして、時代は移り変わり、捨て看板も減っていった。
では、大量生産・大量消費時代は終ったのか?
と問われると、「終った」とは言えない自分がいます。
なぜ言えないのか?それはまだ、大量生産・大量消費をしていることが
捨て看板のように、身近にあるような気がするからです。
日々の暮らしの中で、むせかえるような満員電車の中で、
つまらない会議の中で、様々なものが流れていき、
また、気づかずに流してきたものもあって。
いろんな感情や思う事がたくさんあったはずなのに、
逆にそれらに削られて当たり前になってしまった。
つまり、精神的な「感情」や「心」といった類の
大量生産・大量消費が起こっているのではないかと。
ある人が「時間は前にしか進まない」と言っていましたが、
それはその通りなのだけれども、今とは過去の積み重ねでしかなく、
また、未来とは今の積み重ねで作られます。
つまりは、あの時の「自分」の積み重ねであり、
あの時の「選択」、あの時の「決断」の連続です。
それをお手軽に消費し過ぎてはいないだろうか。
捨ててもいい「あの時」もあるでしょう。
捨てて良かった「あの時」もあるでしょう。
でも、捨てちゃいけない「あの時」もあったのではないか。
捨てたくなかった「あの時」もあって、
捨てないといけなかった「あの時」もあって、
様々な「あの時」の連続が今となり、また未来になる。
消費されていく中で、たまにはに「あの時」を思い出してもいいのではないか
と思ったので、こんな展示をしました。
この捨て看板『あの時の「〇〇〇」』という文字を見た人が、
意識的にではなくても、無意識的にでも、
「あの時」から「今」、そして「こらから」につながる事があればいいな。
と思っています。
と気が付けば、3000文字オーバーの文章になってしまいました。
400字詰め原稿用紙で言えば、8枚分って、どんだけ語ってんだよ。
って感じですので、この辺で締めたいと思います。
捨てて良かった看板。
捨ててしまった看板。
捨てずにこっそり持ち続けていた看板。
本当は捨てたくなかった看板。
ここにある捨て看板に中に、あの時の捨て看板はありましたか?
また、こらからあなたの捨て看板はどうしていきましょうか?
最後までお付き合いいただき
本当にありがとうございました。
太田 勝之